映画は静かだ。辰巳さんの手が大きく映し出される。野菜を絞る手、ヘラを操る手。
玄米のスープが煮えるガラスの鍋ががスクリーンいっぱいにあらわれる。
美しい。命を繋ぐものが生みだされる瞬間に立ち会うような、ワクワクする気持ち。
映画の映像から命の恵みが浸み出してくる。
辰巳さんの核心をつくことば、言葉。
すべてが命の癒しにつながっていく。
ご自身のお父様の嚥下障害の介護から生み出された「命のスープ」
ちょうど3・11後の春から始まる映像は、命というものを意識せざるをえないのだけど。
辰巳さんのスープは、緩和ケアに関わる医療者にも広がっている。
人の「生」の仕上げに飲むスープ。「仕上げ」という表現は、初めて聞いたけれど、確かに心地よい言葉だ。終末期医療とかいうけど、終わりでなく、仕上げ。
震災や事故で急に命を絶たれてしまうのは、惨いことだと思う。けれど、辰巳さんの食の営みのように毎日の食が丁寧に紡ぎ出されていたなら、いつ命が途切れても自分なら悔いはないかもしれない。送る方になるのは辛いが、それだけ食のこと努力しているだろうかとそれはそれで、自戒する。
この映画のもっとも大きな出会いは。邑久の長島愛生園の宮崎さんと辰巳さんの出会い。
宮崎さんが、ハンセン病で16歳で入所して友達になった人が、ガンのために食事をとれなくなってしまった。そこで、辰巳さんのスープのレシピで命のスープを届けている。
お互いに80歳を過ぎないとわからないことが多いことを共感しあっている場面。
宮崎さんがやっぱり生きないといけないのだと語る時。
命は続く。
映画で出会ってほしい。
辰巳さんの凛とした姿、深い思いのこもった食べ物を観て感じるために…
このところ3本映画を見たけど。どれもいいけど。この映画は、こころの中で熟成するだろう。