またまた、石垣へ行ってきた。
ケセランぱさらんは、下のような荷物をかかえて、石垣島へ行った。
ナミさんと歌い遊ぶために、寒い寒い早朝の関空から気温2度の旅立ち。石垣に着けば楽園、25度で、どんどん着ているものを脱いでいき、ついに半そででちょうど良い感じとなった。
楽器もって遊びに行くからね~と言ったので、浪サンも一緒に石垣の「聖紫花の杜」デイサービスと、「太陽の里」デイサービスで音曲パラダイス。浪サンもゲストで一杯歌ってくれた。利用者さんも、浪サンが出るとやんやの拍手!有名なおばあが三線弾いてみんなの好きな歌を歌ってくれる。大盛り上がりで、ケセランぱさらんも自分の音を重ねていく。大阪とおんなじノリで、演っていて、笑顔をみることができて幸せでした。
連日、色々な方と縁を結んでいただく。おばあの親戚のお家に昨年に引き続きおじゃまし、宴会をさせていただく。そこで聴く、おじいのとらばーま。おばあが返し、若いおばあがまた返す。合いの手を挟み、何度も何度も歌われる。とらばーま。
哀しい節でぐっと迫る。その思い。こうやって、八重山の人々は歌い遊ぶ。歌い生きる。生きる中に歌は生まれ、思いは歌にのせられ、仕事し恋をし・・・
翌日はまた、違うとらばーまを聴く。おばあは、三線をもったら人が雑談してようが、自分が何か話そうが、糸をずっと弾いて音がつづいていく。バックミュージックのようにならされる音。このように三線をさりげなく弾く人は見たこともない。
ここで昨日より若い、とらばーまを聴いた。いくつか決まった節もあるのだが、その解説をおばあはヤマトの言葉になおして説明してくれる。また、哀しく、また朗々としており昨日とは味わいが違う。けれど、そうやって、語り歌う八重山の人々のうたごごろには、感服する。息をするように、歌う。
ここには、ちっさい光った合成樹脂の円盤やスイッチをいれないと聞こえない歌ではない、生の声がある。何もなくても声がある。そして、浪サンのすばらしい、衰えを知らない三線がある。私たちが、演奏し出すと、そくざにちんだみをあわせてくる。
抜群の音感をもっており、知らないうちに伴奏に入ってくる。
「あんたなんかと、一緒にアコーディオンとやりたいな。」と言ってくれる浪サン。
一緒に島の歌や、ヤマトのお座敷歌、歌謡曲を歌い・弾き・遊んで夜はくれる。もはや12時も回った。次もいこか~!
結局、2時前頃に宿にへたりこむ。浪サンまったく、動じなくにこにこ、一緒に遊ぶ。
91歳。浪サン。素晴らしい!!
声も艶があって、高い声もでていたし、すごかった。
また、次に会える日を画策しなくちゃ。
そして、少し時間があったので、回った石垣島の津波の痕跡。
1771年明和の大津波が八重山地方を襲った。最高で80メートルを越える大津波で壊滅的な被害があったそうだ。その高さは全く想像もつかない。写真の大きな石灰石は、はるかな年月を感じさせるように、多くの植物に取り巻かれていた。巨石である。
その下の慰霊碑前の石は、海抜60メートル付近のもので、ここに逃げれば津波から逃れらるとその当時まわりに高いものが何もなかったので、ここから合図して、ここまで逃げろと大声で人を集めたそうだ。その石の裏手に慰霊の碑がある。近くで作業をしていたおじさんに、この碑が何故ここにあるのかを尋ねたら、丁寧に教えてくれた。ありがとうおじさん。
そして、下の写真は大好きなヒルギ。生命力を感じるマングローブだ。
また、旅は始まり。終る。さみしいな。また、行きたいな。