9月29日土曜日。この日秋祭りにケセランぱさらんはお呼びが掛かり、京都烏丸御池の御金神社の子供みこしで練り歩き、直会でも歌ったり、しゃべったりさせていただきました。
あまりカミサマにはご縁のない私ですが。この神社は、お金のカミサマとして有名なパワースポットとして、知る人ぞ知る場所だそうです。ご縁ができるといいことがあるかもしれません。
登米市の仮設住宅へ
ここは、大手スーパーイオンの広大な跡地に300世帯もある大きな仮設住宅。
集会所も二つ。整体チームリーダー、はなはな整骨院院長も合流して別れて活動。
ここも南三陸の沿岸部の方が多い。
楽笑さんの演芸に子供達は多いに突っ込み、元気に絡んでくれた。その後、私たちの番で「上を向いて歩こう」をみんなでうたった。前のおばちゃんが、ひとりぼっちの夜なんかかなしい…と目頭をおさえた。
終わったあとも、人なつっこい子供達は私におもちゃを持ってきたり、バルーンの剣で
突いてきたりと元気に遊んでいた。けれど、お世話していたおばさんの言葉は重かった。
一人の男の子を見て言った。「あら、今日は持ってないわ」その子は、この夏まで背中に大事なゲームやおもちゃをリュックに詰め、いつも背中にしょっていた。やっと、置いてこれるようになった。また、神戸の須磨に夏まで避難していた子がいた。仮設の子供達がずいぶん長い間、かかとをつけないでいた事。
心の中に、潰れそうなくらいの不安はを抱え、津波の恐怖からまだ開放されていない苦しみをもって。速く遊んでいてあっという間に時がすぎ、お家で暖かくすごせますように。失った大切な人たちの分もしっかり生きれますように。
ここは、小さい仮設住宅
町会長さんの明るい楽しい雰囲気が、みんなを引っ張っている。
これで、8ヶ所の出張演奏は終わった。
傷は深いが、確実に変わりつつある東北。あまりにも美しい稲穂をつけた田んぼが延々、広がる。大きな大きな風景。
観光客を待っています。
私たちも、変わる姿をこれからも見続け、また、来ます。
9月21日、朝から伊丹空港を発ち仙台空港より、レンタカーでこのツアーを開始した。
メンバーは、演芸・音楽チーム 交遊亭楽笑さん ケセランぱさらん。そして健康体操チーム。
まずは、南相馬市をめざす。
南相馬市でお世話になる、南相馬いちばん星プロジェクトの星さんと待ち合わせ、社協でボランティア登録をすませ、仮設住宅へ。
仮設住宅では、集会所で色んな方が健康のお話をしたり、お茶をした孤立しないような工夫をしている。我々、演芸・音楽チームもまず1回目。賑やかしを…こちらの方々は控えめの感じ。
次は、かしま保育園におじゃまする、3・4・5歳児さんが60人ほど待っていてくれた。子供向けに、楽笑さんは、バルーンアート。私たちは、さんぽやアンパンマンなど、そして面白楽器を持ち出して一緒に遊ぶ。とても、ひとなつっこく、素直な子供たち。可愛かった~
けれど、園長先生からは、深刻な状況を聞く。目に見えない放射線の脅威は、影響を受けやすい子供たちに迫っている。園庭は、2回除染。プールは中止。外遊びは、保護者が許可した子供だけ、しかも時間制限付きだ。舞台の幕の後ろには、ぎっしり支援物資の水が積み上げてあった。ここでは、空気も水も安全ではない。給食は、百万円以上する食品の放射能検査器で1時間以上かけて食べ物を粉砕してからでないと測ることができない。検出基準以下ではあるけれど。
南相馬市も沿岸部は、津波被害が大きい。けれど、原発が未だ終息せず、この先の見通しが立たないという不安は人々を追い込んでしまう。星さんのような、再生のために踏ん張る人たちを応援したい。
今週末 東北へ向かう。今度も演芸・音楽チーム、整体・健康体操チームと一緒に南相馬市、石巻市、南三陸へ・・。楽しみ。
東北は、これから元気になっていく階段をすこしずつ上がらなくてはならない。大きくは厳しい状況が続いていると想像できる。けれど、人と人が繋がり少しずつお店が開店し、人が流れる。そんな小さい変化の積み重ねが沢山あつまればいいなと思う。
大阪から、ベタベタの大阪弁の変なやつらがやって来て、それが歓迎されるか否かはわからないけれど、全力で笑いと聴く人にも参加してもらう音楽を振りまいてくるつもりだ!
福島県南相馬市では、「南相馬いちばん星プロジェクト」の星さんのお世話になり保育園やデイ、仮設住宅を訪問する。
石巻市では、「石巻千人風呂」のスタッフの方の尽力で、あちこちおじゃまできるところを準備していただいた。このチラシは、千人風呂がコミュニティースペースになっているので、気軽に気楽にご近所の方々に遊びに来ていただければとっても嬉しい!
8月のNHKでの放送や新聞や報道でこの方を知らないわけではなかった。
復元納棺師という、ご遺体に生前の面影をたたえさせる技術を持った方。彼女が、いままでに出会った方々のお話や震災でボランティアとして行った復元の家族の話。短いエピソードを一つ一つ噛みしめるように読んだ。今朝、舞子へ行く電車中で読んでしまい、こみ上げる涙をこらえるのを誰かに悟られないか…気にしつつも、ぐっと入り込んでしまいレッスン前に気持ちを切り替えるのに深呼吸が必要だった。海を見る。同じ海だよな。
震災の遺体安置所がいかに尋常でなかったかは、ぼんやり想像するしかなかった。けれど、笹原さんの言葉はやはり重かった。損傷がひどいご遺体が本当に多い。人の形が変わってしまうような大きな力に命は奪われていったのだ。
家族は変わり果てた姿では、直視できず、お別れもできない。笹原さんが、何時間もかけもとの笑いシワをたどってその人の生きた証を復元する時、初めて泣き、慈しむことができる。
私は、三年前にホスピスの素晴らしい看護師さんと共に、父の髪をシャンプーした。
入院した時の服をきせて、やっと痛みから開放されて帰れるね…と家族みんなで最後の時間を共に過ごした。枕元で鳴らしていたチェロの音は聞こえてた?
生きているということのほんの少し先に、続きのように死はあるものだと感じた。
しかし、笹原さんの手による数々のお別れを読んで、そういう穏やかな終わりばかりでないことも知った。特に震災で引き裂かれるように奪われた数々の命。守りきれなかった小さな命。
震災死者が膨大な数字のカウントから、笹原さんの手によって、それぞれ表情を持つ一人の人となって天国へ行くことができたと信じる。
涙を流すことは、自分のためだな。泣いた。
また、私たちは、今月東北の地に向かう。また違った気持ちを持って。