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2009年06月23日
慰霊の日
でいご
島唄をめぐって、朝日新聞の日曜版でも、NEWS ZEROでも、宮沢和史がこの唄を作ったきっかけを語っていた。沖縄戦でなくなった人々の魂を解放したい思い。この唄は、確かに多くの移民として各国に渡った沖縄の人々に渡っていき、風にのって、拡がった。
5月に行った、あの摩文仁の丘に3000人の人々が集まるのを見た。
6月23日 沖縄慰霊の日
この日のあとも戦闘は続いており9月7日に日米で調印が行われ終結しているという。
6月は、平和学習が沢山行われたようだ。沖縄では・・
ヤマトの子供達は、沖縄戦を学んでいるのだろうか。私達の頃には、触れられることがなかったように思う。地上戦になった沖縄戦こそ、沢山学ぶことはある。
昨日は、NHKが渡嘉敷島の集団自決に焦点をあてた放送を行っていた。
2人の兄弟が、父や母、小さい兄弟を手にかけたことを、今も苦しんでいる。
命が毎日奪われていく、異常な状況で、死は生よりも身近だったのだろう。死ぬことは、当たり前のこと。そんな風に追い込んだもの。それが日本の軍隊だったこと。忘れてはならないことだ。
投稿者 pianocraft : 23:59 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月21日
「ユーゴスラビアの崩壊」を再放送で見た
NHK BSで、1週間にわたり、1996年に放送された「ユーゴスラビアの崩壊」を再放送でみた。
第1回 民族主義の台頭
第2回 戦争への道
第3回 独立戦争
第4回 地獄の門
第5回 安全地帯
第6回 アメリカによる和平
今はもう亡くなったミロシェビッチや、ICCで逮捕されているカラジッチなどの関係者が、インタビューに答えており、民族主義がいかに生まれ、利用され、破壊へ繋がるかを生なましい政治家の証言で明らかにされていく。
夜中の12時10分から見る習慣がついてしまい。家族みんな、夜更かしの日々を送ってしまった。
しかし、前に観た映画「カルラのリスト」でもスレブレニツァで虐殺されたのイスラム教徒の遺族達の姿がでてくるが、このシリーズでは、1つところの被害がいかなるものであったかについては詳しく触れられていない。
しかし、あまりにも複雑な国、紛争の絡みあう、人々の憎悪の連鎖に今まで理解が及ばなかったけれど、毎日毎日見た収穫は、政治が民族主義を利用する時、恐怖や憎悪を掻き立てる手段は選ばないこと。そして、戦争に突入しても、インタビューに応じていた人間達は生き残っていたわけだ。
多くの犠牲は、普通の人々。政治は、大量虐殺を行うこと。平気で。人に刷り込んだ憎悪を武器に人を操り、地獄へ送る。その成果は何なんだろう。
戦争へ突入する緊張や、政治家の思惑、段階を踏んで飛び火する民族主義。
人と人が混ざり合って生活していたころに戻れなくしてしまう。こうして分断されるんだ。と。
パレスチナの問題もそう。分断。奪い合う領土。
けれどこれは、もっと身近に今もありつづける重要なテーマだ。
惑わされず、だまされないでいるのには、相当な努力と覚悟がいりそうだ。人間は弱く、恐怖に支配されると過剰に攻撃的になる。平和を維持するというのは本当に力のいる作業だ。
総選挙をにらんで、変な宗教がらみの政党とかも出てきて(最近よく、集会所を見かける。最近近所でも建設された)、とんでもなく荒っぽく、ナンセンスな主張をしているのを偶然、駅前でも見かけた。
じわじわと、ソマリアの問題を許した後に、何をたくらんでいるか。
気をつけて、気がつくか・・・
投稿者 pianocraft : 22:34 | コメント (2) | トラックバック
2009年06月14日
映画の情報
ちょっと気になる映画を覚書に・・・(といっても行けないことも多い 悲し)
6月13日~19日 16:35~ 大阪 第七芸術劇場 http://www.nanagei.com/
「沈黙を破る」監督・撮影・編集:土井敏邦
130分 長編ドキュメンタリー
あと少しで、公開終了だ。元イスラエル将校の加害行為の告白。
09/06/13(日)~09/06/19(金)15:00(~16:20終)/19:10(~20:30終)※6/14(日)休映 第七芸術劇場
「ビリン・闘いの村」同時上映:「THE WALL」より「ブレイキング ザ サイレンス」
(2004年/11分 製作:Sprouts Vision 監督:八木健次 編集:佐藤レオ)上映イベント付きです。
監督 佐藤レオ 61分
パレスチナ暫定自治区・ヨルダン川西岸にあるビリン村の民衆委員会はパレスチナ人、イスラエル人そして外国人の活動家たちを率いて、非暴力を掲げ闘う。
2009年7月4日(土)~7月17日(金)大阪 第七芸術劇場
「雪の下の炎」 監督 楽真琴(ささまこと)
チベットの僧、パルデン・ギャツォの壮絶な半生。28歳で投獄され、61歳で釈放。拷問を受けてもなお、抵抗し抗議活動を続ける。ドキュメンタリー
どの映画も、積極的に平和構築に動いている人たちのドキュメンタリー。
投稿者 pianocraft : 14:19 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月11日
排外主義
「外国人排斥を許さない6・13緊急行動」が、京都である。排外主義グループの「在日特権を許さない市民の会(在特会)」のデモを受けての緊急行動デモ。
このグループは、カルデロンさんの娘さんの学校の前でアピールした人たちだ。酷いことをする。
緊急行動の案内ブログは、こちら
どこの国でも、排外主義は経済の力が弱っている時に、起こりやすいそうだ。
そうでなくても、潜在的にくすぶっている人の心の中の偏見、差別が力を持って外へでていくとこういうことになるのだろう。
今、金曜ドラマ「スマイル」というのをビデオで追いかけ追いかけ見ている。
ストーリーの展開は、だいたい初めから予測がつくので「ああ。やっぱり」と思うことも多いのだが、なんと言ってもテーマが重い。フィリピンと日本のハーフの主人公、早川ビトの物語だ。
彼は、刑務所にいる。何故そこにいることになったのかを、さかのぼってドラマは進んでいく。
このドラマは、主人公の境遇を現すために、いかに差別と偏見を受けて今まで生きてきたかを描くのだが、その言葉を投げられる時に辛い思いが見ているものにも残る。彼の弁護士も在日コリアンだったが帰化した人物で、ビトの気持ちを分かってくれる。
その弁護士の言葉で、「日本以外の国には、外国人犯罪なんて言葉はないんだよ。」
というのがあった。犯罪は、犯罪である。その形容詞に外国人と取り立てて書く意図は偏見に満ちている。
そういうドラマの世界と、現実が露骨にリンクする。
このような現実を見ないふりをしてはいけないというのを、この行動の呼びかけ人は訴える。
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、と にかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次 にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会 主義者でなかったから何も行動にでなかった。それからナチスは学校、新 聞、障害者、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、そのたびに不安は増したが、 それでもなお行動にでることはなかった。そしてナチスは教会を攻撃した。 自分は牧師であったから行動にでた。しかし、そのとき自分のために声を 上げてくれる者はいなかった。 (マルティン・ニーメラー・ナチスに抵抗したルター派牧師)
投稿者 pianocraft : 23:08 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月09日
アシリ・レラさんの「カムイ・ユーカラ」
高槻で語る アシリ・レラさん
先日の土曜日、6月6日、高槻市でアシリ・レラさんの講演会があった。
昨年、相方のてじょんが友人達と訪れた二風谷のレラさんのフリースクール。そこで、交流をして、それがきっかけで高槻市の講演会が実現した。
講演といっても、静かに、落とされた照明の中で「カムイユーカラ」神謡をいくつも語ってくれた。
アイヌの文化は口承で伝えられてきた、動物が主人公であったり、人であったり、色んな教訓や、アイヌの人たちの歴史をユーカラで語っていく。
目を閉じて聞いて欲しい。レラさんは言った。
もうずいぶん長いこと、誰かにお話を語ってもらって、静かに聞き入った時間を忘れていた。
自分が、絵本を読み聞かせた記憶はあるのだけど、でも、レラさんの声を聞いていると、安らかになる。
こんなに静かに声を感じることが新鮮だった。
神の話。アイヌの人々は、自然のもの、生きているものの命をいただいている人間が自然からモノを奪いすぎないように教訓も語る。謙虚に自然と生きている。私達の傲慢をふりかえることができる。
命をいただくときは、感謝する。
さっきまで、生きておったのだよ。そのイキモノにも、親があり子がある。
大切にいただき、感謝しよう。
もっと沢山のお話を聞きたいとも思った。
「アイヌ神謡集」知里幸恵さんの著書もある。読んでみようか・・・
でも、聖地 二風谷へ行くのが一番なのだけど。
南の島のカミサマと北の大地のカミサマ。
色んなカミサマを知ることになったが、人は他の命を奪わないと生きていけないのだから、祈りをささげて命のあったものに感謝しなくてはならないだろう。
映画「おくりびと」でもでてくる、山崎努のセリフもそうだった。命を奪って生きる人間。植物は別だけどね。とおいしそうに、白子を食べるシーン。死者を扱うから、汚らわしいという身勝手な人間。
命に感謝することは、生きている残されたもののための大事な儀式でもある。
単に、スピリチャル的な、わけのわからん予言のような、うわついた感覚だけが好まれることも多いけれど、本当はカミサマや神聖さというのは、生々しい「生」の中にあるというように思う。
もっと、じかに生き死にかかわっていること。
人が、宗教を選んだために、寛容をわすれることだけはして欲しくない。自分の生を戒めるならばなおのこと。