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2007年08月27日
運命共同体
だんだん、日が短くなっていく
今月は、私たちのワークショップ仕事が多い月だった。例年そうだが、夏休みに子供向け、大人向けの手作りの楽器教室を開催したり、呼ばれたりいろいろで、そのつど、知らない人たちとであう。
新しい教室を始めると、初めは緊張感のある、何を話しても反応がいまひとつわからないというような大人の人たちが、モノを作り始めると、いろんな性格が現れて、お互いが刺激しあい、一体感のあるいい雰囲気になる。すべてがそうなるとは限らないけれど、今年の夏の大人教室はとても明るく、個性溢れるいいクラスだった。
そんな風に、人は一歩、他人の守備範囲という距離に入れてもらうと打ちとけ合っていく。
この間、電車でもおもしろいことがあった。
阪急電車に梅田から乗っており座っていたら、十三くらいで向かいの若いお兄ちゃんが自分のあしもとをきょろきょろしている。何かと思ったら、なんとゴキブリがうろついてる。一緒に乗車してるごきぶりの行方を自分のほうに来ないか、気になってながめているのだった。
そのゴキブリ、横へ移動を始めた。私はその向かいに座っているので、ゴキブリの行動は一目瞭然。お姉さんの足元当たりで見失ったので、気になりつつ様子をみていた。となりのおばさんとも、「いやだね。ゴキブリなんて・・」と言い合ったりして、共通の運命にさらされた連帯感がうまれつつあった。
その次の駅で、人が入れ替わったとたんに、ゴキブリはやっぱり動きだした。
舟をこいで、居眠りしてる若いおねえさんの、あろうことか足元から、かばんにかけて、さらには上半身へと移っていこうとするゴキブリ、思い余っておばさんが、払い落とす。
今度は、よそに逃げていくゴキブリ、ゴキブリの移動する場所場所に居る人が、びっくりして立ち上がっていく、ちょっとコメディのようになってきた。若い子はキャーキャー言うし。ついに、ドアの隙間に逃げていったのを見届けて、まだ騒ぐ女の子に、「あっちに逃げて行ったよ」といってあげると、ほっとして座席についた。それを見ていた、おにいさんが、おもわず吹き出した。
あ~面白かった。ゴキブリに這われたおねえさんと同じ駅で降りたが、「ぜ~んぜ~ん気づかへんかったわ~」とつぶやきながら去っていった。その間の車両の関心は一点「ゴキブリ」それだけだ。
ゴキブリのおかげでおもしろい運命共同体となった、その車両の乗客。
なんだ、簡単に人は人と打ち解けることもできるんだな。と思い、でもそれが、恐怖の共同体でなくよかったと胸をなでおろす。人と人の距離感、寛容さ、ってごく小さい感情の積み重ねかもしれないな。
投稿者 pianocraft : 22:43 | コメント (4) | トラックバック
2007年08月21日
世界報道写真展2007
毎年、足を運ぶ報道写真展、大阪ではハービスホールで23日まで開催されている。
関西で開催される後の日程は、
滋賀/10月11日~10月21日、立命館大学びわこ・くさつキャンバス
京都/10月23日~11月11日、立命館大学国際平和ミュージアム
今年は、2005年に次いで知り合いとなった池上宗徳さんのビデオ作品が上映されている。
タイトルは「LEBANON 2006」昨年の8月、ちょうど1年前にイスラエル軍は、ヒズボラと戦い、レバノンの空爆を繰り返した。この空爆の後を池上さんは撮ってきている。
ほとんが一般の市民を対象とした被害となっている、崩れ去った町をみて、あるいは、空撮の街の爆撃前と後の映像をみて、愕然とする。
報道写真展のタイトルとなっている世界報道写真大賞をとった作品もベイルートの街を通り抜ける若者たちを映したものだ。
若者の美しい姿、赤い車と対照的に後には爆撃を受けて崩壊した建物が写っている。日常の中にある破壊。非日常が日常になる恐怖。「戦争とはそのようなものさ」と池上さんのビデオに登場するお父さんがあきらめ顔で言う。
今回の写真展は、レバノンの侵攻を写したものが多い。
そして、そのほかの苦しい気持ちにさせる写真も、すべて、大きな格差の中に放り込まれた人間の姿を見ることができるように感じた。
内戦で埋葬される人、イラクで夜に米兵に急襲される家庭、グアテマラで「フェミサイド」とさえ呼ばれる、女性ばかりを狙った残虐な、虐殺。侵略者と侵略される者の差は?あっちとこっちでどうちがうの?
どうして、殺されなければならない人がいるの・・・という気持ち。
かといえば、スペインで密入国のために過酷な船旅をして衰弱したアフリカ人を助ける、赤十字の人ややその海辺でバカンスのために来ていた一般人。人は助けることもする。殺しもするけれど。
そういった、立場の逆転がいつ起こるかもわからない恐怖。
たった一年前の8月のレバノンを忘れていた日本にすむ自分。なさけない。
写真展に入ってすぐ、写真の影響について語られたくだりがある。
本当にスチール写真と言うのは、注釈がついているといないでうんと違う。人は目から知ることも多い。
けれど、ほんとうにそこに生きている人は、誰かに自分の瞬間をのぞかれているとは思ってもいないだろうね。知るのが一歩。せめてもの、ささやかな、一年に一度の行動。
投稿者 pianocraft : 23:45 | コメント (2) | トラックバック
2007年08月17日
武器をもつということ
8月のお盆の期間には、NHKはsengo62というシリーズで戦争を知る、平和を考えるという番組を放送している。今年は特に、安倍政権の改憲への動きを見てのことか、9条についての討論番組も行った。
「考えてみませんか?憲法9条 平和のこれから、」という番組だった。
この議論に参加していた中に最近知り合った人がいた。彼女は秋元裕美子さんという似顔絵書きだ。
7月のマブイ祭りで出合った。子供のための平和ワークショップで、紙芝居形式で平和の意味を子供に問いかけるというコーナーを担当しておられた。他にも彼女は、ベートーベンの第9に憲法9条の条文を乗せて唄いパレードするという活動を毎月繰り広げている。9月は参加したいと思っている。
この番組での秋元さんの様子は、彼女のブログに詳しい。らくがきわーるど http://rakugakiword.seesaa.net/
この番組の中で、集団的自衛権の議論になったときなど、北朝鮮の脅威を言う人が結構いた。
核の攻撃。日本での核兵器議論など。
けれど、核が武器であるという以前に、この世界に「あってはならないシロモノ」という認識が彼らにはないのだろうか?これを政治の上での議論に乗せることも論外と考える。
武器をもつということは、使う用意があり、持ったものは使いたくなるというのがどうしようもなく、弱い人間の有り様ではないだろうか?
自衛隊も同じだ。先だっての新人議員の佐藤正久氏の言動にびっくりして、強烈に批判しているブログも多い。はなゆーさんのブログも伝えている。
朝日新聞の記事でも、自衛隊員が武器を使えない歯がゆさを感じている。という話があった。
文民統制ということが、こんな輩によって、ぶち壊されないように、と怒りを覚えた。
やはり、人間武器を持つといけない。アメリカ人が銃をもう手放せなくなったように。
ナイフを持ち歩く人間は、刺す相手とチャンスを探しているように。
戦場に立ってしまえば、そこにはチャンスがある。人を傷つけるチャンス。
無防備平和主義がわが身をささげるというガンジーの思想の上に立っていると先の番組で小林よしのりは言った。わが身をささげるということの中身について、まったく違う解釈があるんだと感心する。
特攻的にささげるのではなく、そうなる以前の交渉に身を捧ぐという意味なのだけどね。
アメリカとともに武器を振り回して、自分たちだけが正義と叫ぶのはやめよう。
投稿者 pianocraft : 22:32 | コメント (2) | トラックバック
2007年08月09日
ピアノの数奇な運命
今日は、ピアノのコンサートをはしごした。
全く違う2つのコンサート一つ目は、河野康弘さんの「ワッハッハジャズコンサート」
子供向けのコンサートにおじゃました。いつも弾かれていない眠っているピアノを目覚めさせようと、全国のいろんな場所で、いろんなピアノを弾き、廃棄されるピアノを再生して寄付したりする活動をされている。河野さんの演奏は、ジャズの中でも「フリージャズ」といわれるスタイルだ。だが、子供たちとうたったり、ジャムしたりと元気よく、ピアノの弦をじかにはじいたり、ひじ打ちしたり、拳骨したりして表現していた。
調律師としては、目覚めるというよりも・・・痛みがきになるところです。
今は弾かれていないピアノが確かに日本にはうんとある。したがって調律もされてない、何も手をいれてもらってないカワイそうなピアノもうんとある。そういうピアノが、ひとりのオッサンによって、強烈な弦振動を与えられて、揺り動かされる。そういう人生を歩むピアノもあるんだな。再生され、よそで大切にされるならば、それは幸せなことだけど。
二つ目のコンサートは、エントリーにあげている。「被爆ピアノコンサート」
こちらは、やはり古いピアノを無償で再生し寄付するという活動をしている矢川さんという調律師が、ヒロシマの爆心地1.8メートルの民家で、被爆した75年前のピアノをなるべく新部品を使用せず再生し、全国に運んでコンサートをひらいているコンサートだ。
被爆ピアノは、3台所有されているそうだが、本日使用したものは、松谷みよこさんの手によって絵本になったピアノだ。75年前の75鍵のヤマハアップライトピアノ。
コンサートの舞台上に、アップライトピアノが置かれることは珍しい。立派なコンサートグランドではなく、そこには、つやが少し消えた、ガラスの破片がいっぱいささったというピアノがあった。まわりには、沢山の千羽鶴が飾られている。
それだけで、よくここまでやってきて音をだしてくれているね。と感銘する。
音楽ができない時代、状況というのが戦時だ。文化や芸術が否定されて、個人の自由が制限される。そんな時代が二度と来ないように、ヒロシマのピアノは歌い続ける。
生き残ったピアノは、使命をもっている。人と一緒に旅をし、全国を飛び回る。
あの日閃光を浴びたピアノが、灼熱の光線によって金属がとかされず、木が燃えず、奇跡的に音をならしつづける。このピアノには、まだ人生が続く。
ヒバクシャが訴えつづけることを助けるために、その運命はまだ続いている。
それぞれ違った運命を与えられたピアノ。人と友人のようなピアノ。
投稿者 pianocraft : 00:06 | コメント (5) | トラックバック
2007年08月04日
被爆ピアノコンサート
今日は、ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」をみることができた。
そこ(ヒロシマ・ナガサキ)に居る人々は、ひとつながりで今を生きている。火の海の地獄から生き地獄へと。その事実を世界に住む人々へ届けることができれば大きな意味があるだろう。今も、ウラン弾で「ヒバクシャ」を生み出し続けているのだから、私たちの時代の責任は重い。
先月、「ウリハッキョ」を見た、飛鳥人権文化センターで8月8日に「被爆ピアノのコンサート」が開かれる。これは、無料だけれど、申し込みがいる。
飛鳥人権文化センターのブログに詳しい http://asukaragenki2.blog113.fc2.com/
このコンサートには、知り合いが2人出演する。パーカッションの伊藤さん、ハープの田中ゆかさん。
平和のために音楽で何かしたいという思いの強い人たちだ。
この被爆ピアノのコンサート自体は、よく新聞でも取り上げられていて目にしたことがあったが、コンサートに行くのは初めてだ。このコンサートは、広島の矢川さんというピアノ調律師によって再生・修復され、全国を訪れて開かれている。
この活動は、「被爆ピアノ・翼をひろげる会」が行っている。
このピアノに関連する絵本が今日の朝日新聞に紹介されていた。
「ミサコの被爆ピアノ」作 松谷みよこ 絵 木内達朗 講談社
「ヒロシマのピアノ」作 指田和子 絵 坪谷令子 文研出版(CD付き)
いろんな形で、私はまだ知らないことがあると知らされる。
いわなければ誰も知らない。伝えなければ、伝わらない。
投稿者 pianocraft : 22:40 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月02日
原爆を語り継ぐ映画
梅雨が明けると、アスファルトから反射する熱い空気で、道をあるくのも苦しくなるときがある。
この暑さを体感すると、ああ原爆の日が近いとも感じる。
今年は、久間発言、アメリカからも正当化の言葉が投げつけられた。
そんな折、ヒバクシャをテーマにした映画が話題になっている。
是非、劇場で大きなスクリーンで、集中して観て見たい。
一つ目 私もtamyさんのブログで紹介されていて知った「夕凪の街 桜の国」のコミックを読んでこころ動かされたが、これが映画化された。(tamyさんは、3年前から機会があればとりあげておられた)
映画「夕凪の街 桜の国」 公式サイト http://www.yunagi-sakura.jp/
大阪では公開中
シネリーブル梅田
なんばパークスシネマ
二つの時代を通じて描かれる、ヒバクシャの人生。叫びではなく、静かだけれど強烈な抗議。
この題材を映像の中でどうしらせてくれるのだろう。
2つ目 「ヒロシマナガサキ」 公式サイト http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/
大阪では、テアトル梅田
タイムテーブル
7/28(土)~8/10(金)>朝10:55/12:55/14:55/16:55/18:55(~20:35終)
8/11(土)~8/17(金)>朝10:30(~12:10終)
スティーヴン・オカザキ監督が、25年の歳月をかけて完成させた渾身のドキュメンタリー映画。と紹介されている。
紛争や、人質。いまも毎日続いている。
韓国の青年たちが早く解放されますように。一人の命ももう、奪われませんように。
怒りを胸に抱いている人も、一人の命も奪いませんように。