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2008年03月28日

失われた命たち

失われたのは、命なのか人そのものなのか?結局、命というのは人の根源ではあるけれどその人を失うという、個人の場所まで近づけて考えると「存在」そのものの死という重い、かさの高いものになってくる。

今日、大阪地裁では「沖縄ノート」の裁判で大江健三郎さん側が全面勝訴した。
沖縄の集団自決に「旧日本軍が深く関わった」と認定された。
自決という言い方、客観的すぎる。これは、軍による殺人だから。

旧日本軍の精神性は生きのびることを教えなかった。強力なタテの権力構造で兵士を抑圧し、しまいには死を選ばせた。
「南京大虐殺」や「慰安婦」問題でとりあげられる、日本兵の残虐な行為をおこさせた原因の1つがこの抑圧であったとも言われている。上官からいじめられ、強烈なストレスを与えられたものは、さらに暴力で支配する対象を探す。それが、レイシズムと結びついたり、女性差別に結びつき歯止めの利かない残虐な暴力へと変化していったという考え方。共感できる。

本土の人間は、地上戦を体験しなかった。想像を絶する状況が、沖縄でも中国でもあったのだろう。
軽く、ひとまとめで、かさの低い命となって失われた命。

かとおもえば、日常のなかにも多くの命が「心中」、「無差別殺人」で毎日失われていく。
それ以上に、多くの自死を選ぶ人がこの日本にはいるのだけど。
他人の命も自分の命も奪わないで済むように、どうして人はかしこくなれないのだろう。

暗い気分になってしまったけれど、朝日新聞に掲載されていた大阿闌梨の言葉が、癒しをくれる。
以前に特集したインタビュー記事の反響が大きく、多くの人の癒しの言葉になったという。
例えばこんなことば。

「無理せず、ひがまず、焦らず、慌てず、水の流れのごとく生きる。
溜まりに入ってもあわてることないよ。よどみも徐々に解かれていくから」

大阿闌梨の人生も転々と職を変わって得度は39歳の時。溜まりやよどみに何度も立ち止まってきたひとだから、言葉は優しい。

投稿者 pianocraft : 2008年03月28日 22:02

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