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2006年08月06日
広島 身近な被爆者
8月6日61年目を迎えた、広島原爆投下の日。
昨年、友人のお父さんに広島での被爆の状況を書いた申述書のコピーをもらった。申述書とは、原爆被害者健康手帳の交付に必要なもので、証人がいないばあいなど認められない場合がある。先だって、被爆者認定の集団訴訟で41人が全員原爆症と認定された。被爆当初は、差別などあり原爆手帳をとるのをためらう人もいた。まだまだ、認定されている人は、0.9%といわれている。
お父さんの被爆申述書を書いてみる。8月6日その日。
爆心地より約5km地点で被爆
学徒動員で、高等師範学校生から東洋工業(軍需工場)で派遣されていた。
工場の敷地内木造休憩所にて被爆。
当時の状況
8月6日は、午前8時ころに夜勤を終え、交替の仲間が来るまで外へでて、それぞれの場所で休憩、私は、休憩所で仮眠していた。突然の青白い閃光に飛び起きると轟音と共に小屋がゆれ、舞い上がる砂塵で目の前が暗くなった。隣で眠っていたH君と共に小屋から転がり出すと、何棟も並んでいたすべての工場が鉄骨のみの残骸となり、廃墟の中に裸になった大きな機械類が恐竜が骨格模型のように並び立っていた。川辺でやすんでいたO君、S君が引き裂かれた服を着て「吹き飛ばされた!」と駆けつけ、指差す方向をみると、あのキノコ雲青空の中へむくむくと起き上がっていくところだった。落下したスレートなどで怪我をした者を連れて医務室まで行ったが、そこはもうもっとひどいけが人が一杯でごった返しになっていた。
午後になっても工場内は混乱をきわめ、命令系統も途絶えているようだったので、集まってきた仲間たちと、とりあえず学校へ行こうということになり、国道へでて西に向かった。
途中から東へ逆行してくる人たち(衣服はボロボロになり、裸同然、手足はひどい火傷で皮膚がぶらりさがりよろめいている人もいた)がしだいに多くなり、もう町に入れんと教えてくれるし、前方の市街地に黒煙がひろがっているのを見ると、この人たちの間を逆行する気力もうせて市内に入るのをあきらめ工場内の寮にもどった。寮は、木造なのでたおれていなかったが、柱は傾き天井が崩れ落ちガラスが散乱してひどい状態だったが、とにかく片付けて寝ることができた。
<町の惨状>
・広島駅前から市電に沿って猿猴川を鉄橋の枕木伝いに渡った。最初にみた死骸は、その枕木に横たわっていてまたぎ越すのに躊躇した。
・段原あたりで、倒れた家のしたから家人を引き出そうとしている男性に声をかけられ手伝ったのだが、目的をはたせなかった。今も心に残っている。
・学校の正門前に大きな馬が倒れていた。目玉と腸が飛び出していた。
・学校は、門柱と図書館の建物だけが残っていて、われわれの学舎と寮は焼け野原。正面奥の大学本館(現在)が空洞ながら残っていて、その前の天幕で頭に包帯を巻いた教授が指揮をとられ駆けつけた学生、職員はそれによって先生方の安否や行方不明者の捜索に従事したのだとおもう。
・寮の焼け跡でにおいに気づいて白骨死体を一体みつけた。
・比冶山橋のたもとを歩いていたら学校に残留して旧友のI君が寝巻き姿で顔に包帯を巻いていたので彼が呼び止めてくれなければ見つけられなかった。
・何処の何橋だったか、橋桁から川岸にかけて青白く膨らんだ遺体が数十体集まり浮かんでいて無残だった。
・その夜は、グランドに天幕をはり眠りがたい夜。
・工場のグランドではこの付近まで来て行き倒れた人や、近くから運び込まれた屍体を焼いていたので連日その臭いに悩まされた。
以上(一部略)
人の焼ける臭いは、今でも覚えているという。記憶の中に、その臭いはあるという。
話したくない、思い出したくないと思う気持ちの裏側に伝えていかないといけないという使命も感じてわたしたちに託されたこの思いを、深く、重くうけとめなくてはいけないだろう。
戦場の焼けた臭いも、血の臭いも、腐る臭いも・・・壊れていく臭いを私は知らない。
このままずっと、知らずにいたい。わが子供もそのような地に送りとどけない。
投稿者 pianocraft : 2006年08月06日 23:37
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コメント
こんばんは。一度嗅いでしまったり,聞いてしまった・見てしまったものは,なかなか忘れることができません。pianocraftさんがおっしゃるように,地の臭いや人間の焼ける臭いなど,自分自身も子ども達にも残したくありません。少しでもその役に立てたらいいのですが・・・
投稿者 KATEK : 2006年08月08日 20:31
KATEKさん。こんばんは。
体に染み付いた恐怖は、トラウマのようになっているのだと思います。おとうさんも最初は、思い出すのがいやでしょうがなかった。そのような戦争。そのような核兵器を簡単に持ってしまう国や人って何なんでしょうね。
投稿者 pianocraft : 2006年08月15日 01:54