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2005年04月21日
抗議行動の質
今夜もデモを見た。扇町を車で走っていて、警察がやたらに多いなと思っていたら、対抗車線に長いデモの列があった。ちょっと、シュプレヒコールが聞こえづらかったので、過ぎ去ってしまって何だったかわからなかった。何を訴えてるか?ってのがデモ重要なポイントなのにね。
整然と粛々とこのデモ隊は歩いていた。この人たちをみて、中国のデモというより暴動を思い出した。
大体、集団ヒステリー状態になった、人の塊は、意志をもった(ようにみえる)凶器にすぎない。
このような抗議が、ほんとうにものごとを訴える手段として適当なのかというのは、理性をもってすれば明らかだ。
ものを破壊する行為。暴力行為をみるのは嫌だ。特に集団でやってるやつは。
以前もとりあげた、キング牧師の非暴力平和主義をまたもって、偉大な抵抗運動だったと再認識した。
キング牧師の運動は、バスボイコット事件からはじまった。それはまず、「歩く」という抵抗だった、バスに乗らない。という抵抗。簡単なことのようで、実にたいへんな抵抗運動だった。このことで、黒人のバスでの乗車の差別が撤廃されたが、その撤廃後の初日の様子が本で描かれている。
あるものは、白人から実際に暴力を受けた。だが、暴力で仕返しはしなかった。非暴力ということの実践には、強い、プロテスタント系キリスト教のキング牧師の教えが浸透していたからであるが、信仰などの強い一つの思いにたいする絆をもっていないと人間という集団は、暴力にまみれるのか?
でも、信仰が暴力を生み出しているパレスチナの地もあるので一概にいえないね。ひとえにキング牧師の偉大さだったのか、求心力だったのかもしれない。
たとえテーマは、「平和」であれ、手段が暴力では意味がない。暴力の連鎖は食い止めたい。
日本で中国人を支援する団体や、中国人に暴力的行為がおこらないように。ここは積極的に祈るしかないか。
投稿者 pianocraft : 2005年04月21日 00:14
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