東北を行く 1
南相馬市
雲雀ヶ原陸上競技場管理棟 避難所
先月、11月10日から12日まで、福島県南相馬市と宮城県石巻市で、避難所や宅老所などを回って、大阪のお気楽な手作り楽器や二胡などの演奏をさせていただいた。
あっと言う間に1ヶ月が経ってしまう。
忘れないために旅を記録してみる。
仙台空港に到着して、この地が繰り返し映像で見た、飛行機が流された場所か・・・と思ったが、空港はとても美しく、復興のための大変な労力があったことを感じさせられる。しかし傷跡は、あった。約2メートルほどの高さにある、空港外の屋根部分が大きくゆがんでいた。これから、出会う人、見るもの、色んな思いをいだきながら、この旅はスタートした。
レンタカーで全ての行程を動く。仲間は、私たち「けせらんパサラン」音楽チーム、手話落語家、交遊亭楽笑。整体師、介護士。その日うかがうことになっている、南相馬市の教育委員会の片平氏と、到着後連絡をとる。お昼一番に、仮設に行って欲しいとのこと。とりあえず、駐在されている避難所の雲雀ヶ原陸上競技場へ向かう。
車は、原発20K圏内に入っていく。何も見えない、臭わない、放射性物質の存在。
避難所は、現在もあり、仮説に入居できていない方々が生活をしている。
その日、白装束の若い女性がいた。今日、避難所を除染しているとのこと。
「トユが線量高くて、除染しても0.3マイクロシーベルトなんだな。」と片平さんは言っていた。
そこから、小池第3仮設の集会所に移動し、ちいさい会を開いた。演奏とお笑い、そして整体というセット。なんていうグループ名ですかと聞かれ、相方のてじょんは、おもわず「大阪底抜け脱線チーム」です。と答える。その名で、南相馬はすごす。なんのこっちゃ。けれど、大阪弁の変なグループを見て、聞いて、色んなことして一瞬気分をまぎらしてくれたならと切に思う。
それでは、と東北行きのために(電気をつかわない鍵盤を用意したいため)2ヶ月弱で、無理やり仕込んだアコーディオン。とても左手のボタンが難しいけれど、頑張って童謡や、二胡の伴奏を覚えた。てじょん持参のチンドン太鼓と連なって、仮設住宅の間を、イベント告知のために「道頓堀行進曲」「青い山脈」をアコーディオンで弾きつつ練りあるく。「今からイベントでっせ~」
多くのお年寄りが集会所に集まってくれた。
演奏などが終って交流すると、原発避難もお家を流されたのもダブルの人々も多い。
ちいさい5歳の女の子が、聞きもしないのに「お家ながされた」と教えてくれた。
この周辺にはとても、美しく柿が実っていた。冬の風景にあまりにも鮮やかな柿色。
仲間の一人が、おもわず1つ2つ、もいだ。けれど、お年寄りに言われたそうだ。
「こんなもの誰もたべないよ。食べたらいかんよ。」放射能に汚染された柿は、カラスにも食べられずにたわわに実をつけていた。 地震後、野鳥を見なくなったという。
地震でねぐらをうばわれたのでは、と友人が教えてくれた。
人も、ねぐらをうばわれたのだ。食も、職も、そして何よりも命を・・・。
海岸線を案内してもらう。
ここにも、残ったひ弱な一本の松。沢山の松林で、すてきな海岸の遊び場だったらしい。今は、基礎が残るだけで何もかもない。護岸のコンクリも隆起している。ひしゃげた消防自動車が放置され。多くの消防団が犠牲になった。
夜。避難所に戻る。
ここで暮らす人は、お弁当など外注されたものを食べていて、体調を崩す人も多いという。しばし、夕食後、同じように音楽・落語・肩もみなど整体でこころと体をほぐしてもらう。ここの人たちは、疲れがたまっているように見えた。ここから、学校や仕事に行く。心休まる、自分達だけの時間も得るのは難しいだろうに。
夜の道を宿泊先へ急いで移動する。やはり、夜は寒くなってきた。
コンビニで食事を調達し、ひたすら車を飛ばす。明日の朝は石巻でイベント。
あっという間に初日を終えた。