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2011年07月 アーカイブ

2011年07月20日

沖縄日記1

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アブチラガマ

この連休は沖縄に三線の用事で出かけた。が、その初日に用はすんだので残りの時間を使って気になるところを巡った。

このガマを訪ねる前、朝一番には南部の聖地「斎場御嶽」でさんぐーいをくぐり、久高島の拝所から、この旅の無事とこの沖縄の地を踏ませていただくことを感謝してドライブをスタートした。

南部にはグスクなど、史跡も多いが今回の行動のテーマ「66年前の沖縄戦から今の戦争を巡る」ために「アブチラガマ」を訪ねた。
アブチラガマは、南部観光センターで見学を申し込む。「斎場御嶽」から電話を入れ、見学ができるか尋ねた。一人の見学なので、ガイドを勧められる。

南部観光センターで、ガイドさんの申し込みと、懐中電灯を借り、ヘルメットをつける。まず説明のビデオを見てから、実際のガマへ向かう。
ガマの入り口でガイドさんと一緒に、祈りをささげた。大阪からきた私の名と、今日どうぞここに入らせていただくことを許してください。と、ここで亡くなったた多くの人々に私が入ることを告げたわけだ。

ガマの入り口はとても狭い。ヘルメットに守られながら、かなり急な下りの細い穴をからだを縮めながら入る。暗い。中はまったく光を通さない。ここがどれくらいの高さなのか、足場も鍾乳洞なのでぼこぼこしていて不安定だし、入るだけで不安な感じにさいなまれる。

沖縄にはガマが沢山あるが、沖縄戦においては集団自決の場になったところもあれば、アブチラガマのように日本軍の司令部として内部を構築されたり、病院としての機能をもたされた場所もあった。戦争の体験はそれぞれが、違うストーリー、違う悲惨さを持っている。ガマ内部ではひめゆりの高校生達が傷病者を手当したり、多くの病人の排泄物や、手術ででる(多くは切り落とさないといけなかった手術)人の一部なども毎日、何度も外に捨てに行ったという。

重症患者が多く収容されたために、医薬品も尽きた状況では、捨て置かれた兵隊達は、生きながら暗闇で痛み、苦しみ、死を待つのみであったという。

もちろん、近くの住民も避難していたが、一番危険な入り口の場所で盾にされるがごとく配置されていた。

苦しくて、話したくない生き残りの人々は、重い気持ちをもってしかし、使命感をもって66年前の地獄を伝えてくれている。

その場に立たなければわからないこと。ガイドさんのおじさんやおばさん、観光センターの受付の人のお父さんやら、すぐそばで今も暮らす人々が、想像出来ないくらいの大きな苦しみを抱えて生きている。それは、簡単に共有できるものではないけれど、その場に立つことで、恐怖は容易に想像ができた。

伝えなくてはならないこと、沖縄だけが経験した戦争。敵見方関係なく、傷つき、トラウマを抱えなければならない戦争を否定する気持ちの強さは、沖縄にはあった。

2011年07月22日

沖縄日記2

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激戦地 シュガーローフの丘の現在

アブチラガマに入り、最後にもう一度祈りをささげ、お水をそなえて感謝の言葉をこころでつぶやいた。

観光で多くのナイチャーが訪れる沖縄の地のその足の下には、数え切れないくらいの悲しみがある。今、新都心としてにぎわっている、ゆいレールの「おもろまち」駅。DFSギャラリアがある向かいに、沖縄戦の激戦地シュガーローフの丘があるという。
写真の水道施設がかつての丘であったらしい。ホテルから眺めると見えたので、写真に収めた。

66年前の戦争から、沖縄自動車道に乗って辺野古へ向かう。こちらは、現在も戦争を続ける米軍の基地のそば、あたらしいV字滑走路が出来る案があり、昨年の鳩山発言で大揺れに揺れた。

新しい基地を作らせないための座り込みの抵抗。もう15年となる。

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暑い日・寒い日。
まえは、鉄条網で基地と仕切られていた浜も、今は異様な構築物(フェンス)が張り巡らされていた。この日は台風の影響があり多くの支援のバナーは外されていた。
私も自作の小さめのバナーを持参したが、いつかまた張ってもらえればいいなと思っている。じっとフェンスの先をながめていたら、迷彩服を着て、重そうなリュックを背負って浜から丘にあるく兵士を見た。どきっとした。

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テント村の女性と話した。ちょうど、東京から写真家の方も訪れていて高江の状況も教えてもらった。今回は立ち寄ることができなかった高江。ヘイパッドの建設反対で24時間の座り込みを行っている。辺野古と違うのは、動きがあるときは重機でやられるだろうが、それまでは何も動きのない、丸一日を忍耐で座り込み続けている。
時間も長い、予断は許されないが、かといって何もない一日がほとんどで、がまんくらべ。その心理的負担はそうとうキツイものであるということ・・・。

関西でも支援の機会があるにしても、その地に行ってみてわかることは、空気感だ。
この風景の中で、抵抗を続ける人がいる。それぞれに色々すること、したいこともあるだろうに、もうこれ以上にあらたな苦痛をあたえないで、ほしい。

必ず、また訪ねる。

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沖縄戦を語り継いでいる沖縄の人々は、一方では基地に関しては「あるのがあたりまえ」と思わされていることもあると聞いた。米軍の懐柔策の影響もあるが、新たに作るということに対して反対しないというのはやはりおかしい。基地を全部なくせればいい。けれど、それが簡単でないことは誰でもわかっている。ひとつづつ。新しいものは拒否しようというのが辺野古の闘いであり、高江の闘いであるとテント村の女性は語った。

2011年07月30日

NHKBS1「オキナワ リポート ~兵士をむしばむ戦争神経症~」

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『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知ってること―沖縄・米軍基地観光ガイド』書籍情報社刊 

BSの「オキナワリポート」を見た。
沖縄戦で、PTSDという言葉もまだなかったとき、米兵がどんどん神経症になっていく状況に、米軍は前線に精神科医を送った。その時に記録された症状がオキナワレポートだった。

先日、アブチラガマでつらいつらい66年前の沖縄戦の悲惨さ語ってくれたオジイやオバアのことを聞いた。蘇る臭いや空気、音に思い出すのもつらく、苦しい。忘れたいけれど、その時になくなった多くの人や傷ついた人のために語り継がねばならないと、重い言葉を伝えてくれたと。
その時に兵隊も、一般の人たちもみな傷つき、誰一人として良いことはなかった。戦争とはこのようなものだと語ってくれたという。

このドキュメントでは、その様なガマを掘り、米兵に見えない敵と言わしめた奇襲が、米兵に神経症を患わせた原因となったと伝える。常に狙われている恐怖感。どこから狙われるかわからない。その上、15歳から召集された少年達が自爆攻撃を仕掛けてくる。ガマを火炎放射で焼き、逃げ出てくる一般の民衆、もうわけがわからなくなり、誰でも赤ん坊でも殺してしまったと証言する、元米兵がいた。

沖縄戦で戦った生き残りの元米兵たちは、重い口を開いた。本当に辛い闘いであったと。ヨーロッパでは経験したことのない、いやらしい戦術に精神的に追い詰められた米兵達。凄惨を極めた沖縄戦は、日米どちらにも大きな傷を残しているとわかる。

そこから、現代に転じて、今のイラクやアフガンに従軍中にPTSDになった兵士たちは、一旦軍の病院に送られ、再度、克服するための訓練を受ける。その映像は衝撃的だった。傷だらけの兵士(仲間)の人形、傷ついた肉体の一部を再現したものなどを置いたくらい部屋に照明を部分的に当て、もう一度その中で体験をさせる訓練。

あるいは、シュミレーションゲームを使い、脳波の状態を確かめ、正常とみなされた行動をとれば戦場に再度送られるという仕組み。

これを見ていると、彼らはもう人間ではない。戦場で機能しないプログラムの破綻がみつかれば、国の工場に返され再プログラムされる。人間として壊れるまで、繰り返すのだろうか?
一方で、イラク帰還兵たちが入院する精神病棟では、治療プログラムが行われていた。沖縄戦とイラク・アフガンのPTSDは似ているという。自爆攻撃でどこで車が爆発するかわからないという追い詰められれた状況がそうさせる。

この凄惨な戦いのあったシュガーローフは、先日の写真にある。
那覇の繁華街も激戦の跡。
車で辺野古の後に普天間基地が見渡せる道の駅に立ち寄った。
那覇まで帰る道は、米兵の基地から出る車と何台も並んで走った。どこまで行っても、横に基地がある。どこまで走っても終らない。時々、かわいい家々が並んでいる。

オキナワに行ったら、是非基地を見てください。写真の本は、辺野古で買いました。
どうやって、そこにいけるか、丁寧に書いています。そして、米軍の戦争の出発の地でもある沖縄を見てきてください。

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