今日6月11日は、3月11日の3ヶ月後ということで、日本中で反原発・脱原発のアクションが行われた。
まだ、収束の見通しがたっていない福島原発の状況にあまりにも多くの人が不安と恐怖に陥っているという証拠に、原発関連の集会、学習会、講演会などが満杯になるという現実がある。
今日も、その1つ、神戸であった小出裕章先生とドキュメンタリー映画「祝の島」の監督纐纈あやさんの講演学習会「原発の安全神話を考える」に行ってきた。午前中、二胡の演奏の伴奏の予定がありそちらが終ってすぐ大阪から神戸へ駆けつけたが、着いた午後1時にはすで会場は満席で立ち見もいっぱいで、一階上の第2会場でのネット中継の映像と音声で何とかよく見える場所での立ち見を確保した。この会場も大変な参加人数で気の毒なくらい立ち見の方がぎっしりと出入り口まで埋めていた。
参加者の年齢層は高い。小出先生がじかに講演をされるのでかなりの人出となったのであろう。
小出先生のわかりやすい解説は専門家ではない私や多くの人にもわかるように畳み掛けるように、原発が必要ないことを裏付けて説いていく。
初めからわかっていたことに対し、無知であることに甘んじ、いかに私たちは電力会社の都合よく刷り込まれていたのか、co2の排出量を盾にエコというまやかしを言い放ち、遥かに危険な核廃棄物については、地下に埋めて安心など広報を湯水のようにうちつづけた関電。
私もこのCMが流れていた地震前の時はみるたび腹立ち、毒づいたものだがそれだけではもう済まない。
講演最後の質疑応答で、より深い感銘を受けた。どんな質問にも丁寧に、真摯に答える小出先生。その言葉の中には、自分の責任を語るところもあった。それは、福島はもう、人が住める状況ではないけれど、チェルノブイリでもそうであったように、その地でないと暮せない人が汚染を知ってもとどまり続けることは理解できる。農業も、漁業も含め地球全部が3月11日以降は汚染されたのだから、その現実を我々は責任をもって受け止め、災害地区の農産物・海産物を子供や妊娠の可能性のある若い人々以外(そういう人は避難するしかないし、そういうものを避けなくてはならない)どんどん食べて、地域の産業をつぶしてはならないと考える。といった内容だった。
長年生きてきた私は、もう充分に細胞レベルでもガンのリスクは高いし、放射能の感受性も年齢でうんと減るらしいので、何も怖いものはない。いままで結局は原発を黙認してきた都会という街に住む人間としての責任は、「おこってしまったことを引き受ける」という覚悟であると、ひしひしと感じた。
最後に纐纈あや監督が涙を見せながら語ったことばは生身の彼女の言葉で、私にも強い印象を与えた。、本当に地震で感じた恐怖に対する正面から向き合う決意宣言。チェルノブイリで彼女と一緒に仕事をしてきた本橋監督(ナージャの村・アレクセイと泉・ナミイと唄えば)が、たった一人汚染地域に住み続けるお年寄りに「なぜここにとどまるのか?」と尋ねた答え「人が汚したのだからここにい続けなくてはならない」という言葉をきっかけに映画作りを始めたというメッセージは強く響いた。
人がすべてしたことだから。
電力会社からがんじがらめで補助金と仕事から解放されない人々たちのことも知っています。けれど、麻薬のような構造を是非断ち切ってもらいたい。切って、本当の地域振興を行ってほしい。切実に。