いのち
今年が始まってから、このひと月もあわただしく時が過ぎていった。
特に年末から年明けは、年が変わるという雰囲気ではなかった。連綿とつづく翌日が始まったように。
いのちについて考えることが多い。
1月17日の震災の日前後の報道やドキュメンタリーは例年と少し違う要素もあった。
震災16年のその後の人々の暮らしなど。
復興住宅借り上げ期限が切れる20年を前にして転居をせまられる高齢者の報道、震災後のケガの後遺障害に苦しむ人々を追うドキュメンタリーなど、震災の傷跡、爪の深さを思い知らせれる。
生き延びたけれど、あの日からがらっと変わった人生。
それは、病気でもいえることなのだと思う。
何故か、NHKでは「がん」に関する情報を取り上げていることが多いと思う。
民法のニュースの1コーナーでも、女性のがんは注目されていると感じる。
私のまわりが「がん」だらけなので必要以上に目や耳がそっちに反応しているのかもしれないが。
「がん」の情報を見るといのちを考えてしまう。
自分のいのちは、何事もなく維持され続けている。そう、翌日が必ず来るというような錯覚を持ちながら、今ひと時も何もしないまま過ぎ去ってしまうというように。
自分の体のなかには生命を維持するために本当にいろいろ働いているのだね。と感心もするし、たぶん体内労働者の中には、悪いものを作り出すやつも同居している。
こんなことを思うのも、また「がん」患者が身辺にあらわれたからだ。
サバイバルの見通しのたたない「がん」の状態から、看取りまで。また。
当人にとっては、生も一回、死も一回。医者にとっては毎日の出来事なのだろうが、がん患者の家族には患者と同等の配慮と情報、誠意が欲しいものです。他の重篤な病気でもそうだろうけれど、がんはあまりにもポピュラーなので、医者にとっては。
カンペイさんが、大阪に帰ってきたね。前立腺がんのサバイバーとして。
がんで逝った、清志朗の姿を思い出す。生き残るものへバトンを渡した人として。