リバティ大阪へいった。
「在日100年の歴史を後世へ」という企画で、集められた資料が展示されていたリバティ大阪へ、先日行ってきた。リバティ大阪には、久し振りに行ったのだが、以前行ったときと、常設展示も展示方法が変わっており、学生が学ぶために工夫を凝らしてあった。
今回の特別企画で、在日韓国朝鮮人と呼ばれる人々が、さまざまな理由で日本で、大阪で暮すことになったことを改めて知ったり、戦時中に差別、虐殺があったことなども当時の資料と共に知ることができた。
人が、人として生きていく中で、生き難さを感じさせる「差別」という壁を人が人に作ること。その原因となる小さな「芽」のように巣食う慣習・伝統・性や病気に対する感覚を知ることが大切と、展示ではたびたび啓発のアプローチを私たちに向かって行っている。
その中には、エイズやゲイについても同じようにコーナーが設けられており、おそらくうんと前にここを訪れたときには、気がつかなかった。いつも、気をつけて自分が「人の足を踏んでいないか?」と考えたり自分の感覚が「ぶれ」て、差別的になっていないかと考えてはいるけれど、「足を踏まれた」側の苦しさを思うときは、想像力を総動員してもなかなか自分には及ばないのではないかと感じる。
それでも、想像することをやめると感覚が麻痺することが恐ろしい。
「女人結界」の石碑が展示してあるのだが、それを前にすると力んでしまう。
怒りや悔しさが「ずしん」とおなかの中に塊を作り、しばらくそこにたたずんでしまう。そういう、拒否されるという感覚。自分の存在があからさまにはじかれるという感覚が自分にとっては痛みのセンサーだと思って、大切にとっておこう。
それを知っているだけで、想像の助けになる。実際は、生活に何の痛みもないのだけど、心にぽつんと
暗い影を感じる時の感覚は、多分わすれることはない。
「血」に対する恐怖がそうさせるとか・・いろいろ勝手な理屈があるが、人間は血の通ったものを頂いて(命をいただいて)生を継続させている。それを見ないように生きるという勝手な一方の人間のやり方。
そういうえば、膨らんだ市場原理主義も経済至上という、現実に人が人として営む生を感じさせない力で政治が動かされている現実を見ると、人は道をあやまっているとつくづく感じるな。