両親という夫婦
久しぶりに美しい夕やけ
この一月といえば。両親の半介護状態で、自分の遊びはちょっとお預けだった。
非常にプライベートなことなので、書く気がひけるのだが。母の骨折がきっかけで、両親が四六時中顔を見合す空間に居る生活というのは、とてもたいへんなことだった。私は、同居ではないが、近くにいる。
よく考えると、私が外出に車を出さないと、両親は駅までの外出さえ無理だ。そして、普段は一人で買い物にも老人会にもいろいろ社交的に過ごしていた母が、家から一歩もでることができなくなったこの一月。母にとってのストレスの原因は父その人そのものだった。
ちょうどこの間、朝日新聞でも夫が妻を介護する場合の問題点が載っていたっけ。
夫は、スケジュールどおりにすることを要求するけれど、体調が良かったり、悪かったりする妻に対する配慮ができないことが多いとか。
父は昔は、大正生まれにしては、家事をまめに手伝っていた。炊事、掃除そいういうことを。
ところが腰が悪くなってから、特に最近はやれなくなった。できないということはプライドを傷つけるのだろう。それが、母に対するいやみな言葉となってしまうらしく「一月もたつのに直らないのか」などといわれても、自分も不自由なくせに人のことは配慮できないなんて・・・と思う。母は顔をあわせると愚痴をこぼすようになった。
年配の夫婦は、昔からの力関係から抜け出せなくて、歩み寄り支えあうということが苦手なのか。
私にとって、この間の介護にまつわる具体的な拘束時間はなんとも思わないのだが、母の感情の沈むところを見るのが辛かった。自分ができない情けなさに自分を追い込んでるなと・・・思うこともあったし。
パートナーって何だろう?人生の横を歩く人は、私はいつまでも他人だと思っている。
だからこそ、気をつけて心を掛けていかないと、見失うことがあるのではないか?と思う。たまたま一緒に住んでいるけれど、一緒に子供を育てているけれど、自分のものでもないし、その人は他人以外のなにものでもない。自分の思考プロセスと違う生き方をする人だ。それを、不思議に思ったり、面白がったりできる幸せが、他人と暮らすよさなのにね。
両親は、古い夫婦感に自分を押し込んで生きている。自由になってよ。