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2006年07月 アーカイブ

2006年07月02日

小さい出来事

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桔梗寺のピンク桔梗

6月は、いつになく仕事がばたばたした。けれど月末には、老親を連れての小旅行に出かけた。
その前日は、もう何年もあってない高校時代の友人と再会して深夜まで飲んでいて、とんでもなくヒドイ朝になったのだが、ドライブ旅行のために重いからだを引きずり、車を出した。

昼ころには、梅雨の中日の強烈な日差しに、へろへろになりながらゆっくり、いくつかの場所を移動した。
夕方になるにつれ、なんとか調子を取り戻したときに、桔梗の寺を訪れた。
老親と一緒なので、極力歩く距離の少ない旅だ。
新緑の美しい田んぼと桔梗の紫がぱっと気分を変えてくれるのを助けてくれた。

その日の一泊は、ことのほか私にとって、パソコンを使わない、TVを観ない、家族の用事もない、ゆっくりとした夜になった、信じられないくらい早く眠って、本当に御褒美のような一日をもらった。

旅行が好きだった両親は、今は体力の自信もなくなってきていて、その上、たよりの子供は仕事でばたばたしているので一緒にゆっくり旅にでることはなくなっていた。
こんな日も良い。と久しぶりにおもった。

年をとるということは、自由がきかなくなること、つまり不自由なことが増えること。けれど、心の中まで不自由になるわけでなく、きれいなものは心に響く。

今日、大阪で最高齢の調律師協会の会員の方の手紙文をFAXでもらった。
読んでみて、びっくりした。
手紙というものを何年も読んでいなかった・・・と。
この方の手紙は隅々まで、美しい言葉でつづられている。日本文学の秀作を読んでいるような流れるような文。私にはとうてい書けない。
若輩者に対して礼を失せず、おしつけがましくもなく、自然で、よけいな修飾もない。難解ないいまわしを使わず、本当に美しい。

そんな日本語が老いた人たちのなかに息づいていることを知ると、見えなかった何か小さなものが見えた気がした。

2006年07月07日

似たもの同士

北朝鮮のしたことが、日本に及ぼした影響といえば、米軍再編への強い後押し。あるいは、憲法改正へのいくつ目かの一歩となったというか・・・やれやれだ。それから、日本のにすむ在日朝鮮人の人々への悪影響がでなければいいのに・・・とひたすら願う。

敵を作っておくと、人をまとめるのが容易だ。本当の敵ってなんだ?

このミサイル発射実験によって、日本の中でも「総連」と「民団」が和解を撤回した。
それ以外の軋轢もこの2つの団体にはまだ、多くあったのだろうけれど。
最近、知り合いが国籍を朝鮮籍から韓国籍に変えた。それで、めでたく韓国旅行にいける。
「やってみたら、ひょうしぬけするほど簡単だった」そうだ。
非常に近い関係ほど、こじれると泥沼化する。これは、国という大きなレベルから、ごく個人的な人間関係においてまで、隅々まで・・・。
けれど、市井の人々はもう少し賢い。自分たちの生活が組織の中でだけあってはいけないと知った人たちがいる。今日のNHKの関西クローズアップという番組で、在日社会にミサイル発射実験が与えた影響を追っている。姜尚中さんがゲストで話していた。自分たちの生きていく国は、この日本だ。ということを前提に、日本の中で日本に住むいろんな人とコミュニティを作らなければならない。という考えを持った人も増えていると伝えていた。

違うという認識のもと、付き合うと、似た部分を面白がることがあっても、非常に近く、点より面で接してると少しの違いが許せない違いとなる。といったようなことを感じる。

パレスチナとイスラエルも兄弟宗教で、あるがゆえか。ガザ地区への攻撃はやまない。多くの、普通の人が軍隊によって殺される。血がちかいほど、反発するように。怨念のように許しあうことがない。

かくして「ラブ・ミー・テンダー」首相は、まったく別物の国、アメリカに尻尾をふりつづけて、任期を終えようとしている。大変な不良債権(の社会体制)を残して、去っていくのか・・・。
ミサイル実験のおかげで、Xバンドレーダーの基礎データの収集に役立ったとか・・。
けれど、決して私たちを守ってはくれないということは、わかっている。

マイクを離さない男

もうひとつ、七夕には書いておかないといけない話がある。
とはいえ、もう何べんも書いてきた。私的なことだ。

七夕は友人の命日である。真夜中の駐車場の前で暴漢に襲われ命をおとした。
大きな体をしていた男だったのだが、腕に覚えが中途半端にあると、必要以上に抵抗してしまうのか相手の凶器を省みずに、失血死した。

結局、尻のポケットから見えていた長い財布を盗む目的の犯人だった。
抱えていたバックの中に、本当は私が見てみたかった、大切なノートが入っていた。もう、二度と見つからないだろうけれど、大好きなシンガーの伝記のようなものを書きためていたらしい。
私も好きなそのシンガー。
結局多くのものを、奪われた。

先日、日曜に、彼のご両親宅へおしかけて、にぎやかに供養パーティ(変?)をしてきた。
仏壇の写真は、相変わらず「マイクを掲げてシャウトする」姿だった。よう10年以上おんなじ格好してるわ。とみなに冷やかされて、どう思ってるんだ。え!?
これからも、私も音楽を離さないからね。

2006年07月18日

生きてきた歴史って

気分として・・毎日が日曜日でいたいと思っていても最近はそうもいかない。隙間に映画や集会に出向いていきたいのだがそれもかなわない。
そんななか、災害・紛争が押し寄せていて、そちらも気がかりだ。ジャワ島は地震の被害から立ち直っていないだろうし、インドネシア沖の津波のあとに急がれていた「ツナミ警報」の設備も整備が間に合わなかったようだ。自然も人も国も壊れているような気がしてくる。こんなうっとうしい気持ちをちょっと変えよう。もちろん、支援もわすれず、国の壊れるのを阻止できるように力もつけなくてならないけど。

すてきな人生というか、不思議な人生の話を聞いた。
友人のお父さんの話なのだけれど。友人は、沖縄県出身。小学5年で大阪にやってきた。
お父さんの生まれはインドネシア。沖縄の人たちは、当時入植してたのだろうか、比較的裕福だった様子だ。というのも、お父さんは三輪車に乗っている写真をもっているそうだ。昭和のはじめの生まれの人としては、ハイカラ。けれど、母を失い、沖縄に帰って継母にはいじめられた。そのせいか、大人になってもなかなかひとつところに収まらない、放浪の人生を送った。

友人の母と結婚してから、返還前の沖縄で大工をしたり、農業をしたり、牛飼いをしたり。ふっといなくなるとおもえば、当時だれも住んでいなかった西表島に舟で出かけて(そのときは石垣島に住んでいた。)
掘っ立て小屋をたてて、一人で水牛を飼ってすんでいた。ともかく、自由で、大阪に出てきて、落ち着いてから家族を呼び寄せるときに親戚中で、反対賛成と大騒ぎして、結局、友人は大阪にいついた。
今も、お父さんは、パチンコと仕事と半々で生活してる。母はくろうしたけどね。そうだろうね。きっと。

その友人も、沖縄の那覇に住んでいた子供のころは、ドルを握り締めてお父さんの泡盛を買いにいった。
米軍基地のフェンスの下に穴を掘って、忍び込んでは、米兵の子供と遊び、見つかりそうになったら、米兵の家族にカツラをかぶせてもらい、アメリカ人にカモフラージュしてもらって、守ってもらったらしい。
これもすごいエピソードだ。ほんとは、人と人の間にはひどいことばかりではないはずなのに、仕事として
兵隊になると、人間をすてさってしまうように思う。

人間をすてないと人間の命は奪えない。
多くの人間でない生き物が、今も人間を襲っている。イラクでパレスチナでレバノンで。

2006年07月21日

歌をもとめて

櫻井和寿がBank Bandとして唄っている「to U」の歌詞から一部を書いてみた。

<瓦礫の街のきれいな花 健気に咲くその一輪を
「枯らす事なく育てていける」と誰が言い切れる?
それでもこの小さな祈りを 空に向けて放ってみようよ
風船のように 色とりどりの祈り

愛 愛 それは強くて だけど脆くて

また、争いが自然の猛威が 安らげる場所を奪って
眠れずにいるあなたに 言葉などただ虚しく
沈んだ希望が 崩れた夢が いつの日か過去に変わったら
今を好きに もっと好きになれるから
あわてなくてもいいよ>

この歌詞は直接的だが、想像する事を思い出させてくれる。
歌は、人の心をとおって生き残っていく。
決して、作者の意図どおりでなく、けれどその人に必要な形で歌い継がれる。
ブラックミュージックも沖縄の唄も私には、虐げられた人の歌だ。それゆえ、強力な力でひきつけられる。

櫻井の歌詞のように直接的ではなくとも、隠喩としてあるいは、知らず知らずに心にしみとおっていく歌の力は、計り知れなく魅力的だ。
今は、自由に歌を求めている。ひとつの解釈がなりたたない歌。
つまり、それは、歌い手のそれぞれの歌がそれぞれに息づいているということだ。

この歌を、今日はミュージックステーションというTV番組で聞いた。櫻井の音楽は、我が家の子供のお気に入りで、彼にとってはかなり大きな存在であることも知っている。この歌のメッセージを彼が歌うときはどんな風になっているのか、少しは楽しみにしているけれど。何を思い描くのだろうか?
我が子は、よりによって歌を歌う道を少しずつ歩いている。

2006年07月22日

靖国問題がゆらぐ

昭和天皇のメモが報道されて、いろいろな思惑が飛び交っている。
「政府がコメントすべき問題ではない」と安倍晋三官房長官、小泉純一郎首相ともに述べている。

政治の問題にしたのは誰だ?

靖国に祀られることは、遺族と認定されることとすれば、戦後の戦没者の補償問題とあわせて、単純に遺族の心境をわたしたちがおもんばかることも難しいとも思えるが、そもそも、一宗教施設に何故いっしょくたにされないといけないのか?

いっしょくた・・・このことが、天皇自身も不愉快だったということが、今回のメモの焦点だ。
一種異様な宗教施設である「靖国神社」
本当は、とうの昔にみんなの魂は、そこにはないと思うのに。
日本のトップの政治家として参拝しつづけた小泉首相は罪深い。政治をもっとも靖国にちかづけたという点で。

2006年07月30日

よくも悪くも

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よくも悪くも、誰も問題にしないことだろうがブログの更新をしていなかった。
よくも悪くも、この間に「どうしても書いておきたい」と心を動かすことがなかったからか?
よくも悪くも、悲しかったり、嬉しかったり、腹が立ったりしなかったからなのか?

今、気がついた。確かにパソコンに向かっていた時間は、今多くは、楽器に触る時間に変わっている。
音を出す時間は限られている、とはいえ常識的でない時間にウチでは音がなっているけれど。長年、住み慣れた家で、父も楽器を教えているのでいつも音が鳴っている。
心の力を使わなくて、知的な力や、技術の力をたくさん使っていると、感性的な部分は働きにくいのかもしれない。

今日、「世界一受けたい授業」というTV番組で、「泣くことは、心をリセットする」というテーマの授業があった。泣きたくなるようなこと、何かで心を動かされて泣くところまでいくと、心はそれまでのストレスを開放してくれるそうだ。血液中のストレスをあらわす物質が減少するという結果が示されていた。
そういえば、泣いてない。映画や本とゆっくりつきあってなかった。

今の自分は、実に上滑りに生きてると感じるときがある。多くのことをこなさなくてはならないとき、人は
深く考えたり、立ち止まることをとりあえず、置いといて先に進もうとするから。充実していないわけではないのだけど。いろんな人と出会うし、考えるし、段取りするのだけど。

今日も、茨木市でワークショップをひとつした。
子供たちと楽器つくりを一緒にしたのだが、とてもいいワークショップになった。それというのも子供たちが小さい子と大きい子で自然と協力したり、作る喜びや、音を出す楽しさをみごとに体現してくれたから・・・
よかったなあと、思っている。この夏は、まだ子供のワークショップがあるが、いいスタートだ。

だけれど、やっと深夜。今日、立ち止まることができた。そうしたいと思ったからなのだけど。
そして、WEBの中のブラックホールにすいこまれる感覚に帰ってくる感じがもう、すでに懐かしい。
またいろんなブログのところに遊びにいこうっと。

久々のバンドスタイル

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9月にボランティアバンドとして、障害を持った人たちの施設のダンスパーティに参加する。
友人のMIKIに誘われ、久しぶりにバンドのキーボードとしてリハーサルをした。
今日は、リズムセクション抜きの軽い曲あたりの練習だったが、歌とギターが入るだけでうんと、違う。

自分の楽器とほかの楽器のコードの重ね方、リズムの合わせ方、いろんなところが、一人と違っている。
思えば、バンドというものをはじめたのは高校生のときだった。
ひとりで楽器屋に行き、<スティーリーダンが好きです。バンドをさがしています。>みたいな広告をあべのの三木楽器アポロ店に貼ってもらったのが始まりだ。今考えると、連絡先を書いた紙をはっていてもいたずら電話なんて一本もなかったっけ。

わたしは、ソロのピアノ弾きではない。歌い弾くのが好きで、バンドのバッキングのおかずにちょろちょろするものや、重圧なリズムに乗っけて引くようなものも好きだ。

結局、アメリカンロック、R&B、ブルース、ファンクジャズなどをバンドとしはやったことになる。
三線ももっと弾きたいのに・・・・。今は、鍵盤に向かう日々だ。
結構楽しく、幸せでもある。

この夏は、またあっという間に過ぎてしまうだろう。

思えば、ばあさんになってもバンドやろう!というのがそもそもの夢だったから。着実に年だけは重ねてきたけども、ここからまた違う音楽でも勝負できるように、鍛えなあかんな。
アレルギーにさいなまれる、ねこずきのボーカリスト MIKIサンキュ。

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