小さい出来事
桔梗寺のピンク桔梗
6月は、いつになく仕事がばたばたした。けれど月末には、老親を連れての小旅行に出かけた。
その前日は、もう何年もあってない高校時代の友人と再会して深夜まで飲んでいて、とんでもなくヒドイ朝になったのだが、ドライブ旅行のために重いからだを引きずり、車を出した。
昼ころには、梅雨の中日の強烈な日差しに、へろへろになりながらゆっくり、いくつかの場所を移動した。
夕方になるにつれ、なんとか調子を取り戻したときに、桔梗の寺を訪れた。
老親と一緒なので、極力歩く距離の少ない旅だ。
新緑の美しい田んぼと桔梗の紫がぱっと気分を変えてくれるのを助けてくれた。
その日の一泊は、ことのほか私にとって、パソコンを使わない、TVを観ない、家族の用事もない、ゆっくりとした夜になった、信じられないくらい早く眠って、本当に御褒美のような一日をもらった。
旅行が好きだった両親は、今は体力の自信もなくなってきていて、その上、たよりの子供は仕事でばたばたしているので一緒にゆっくり旅にでることはなくなっていた。
こんな日も良い。と久しぶりにおもった。
年をとるということは、自由がきかなくなること、つまり不自由なことが増えること。けれど、心の中まで不自由になるわけでなく、きれいなものは心に響く。
今日、大阪で最高齢の調律師協会の会員の方の手紙文をFAXでもらった。
読んでみて、びっくりした。
手紙というものを何年も読んでいなかった・・・と。
この方の手紙は隅々まで、美しい言葉でつづられている。日本文学の秀作を読んでいるような流れるような文。私にはとうてい書けない。
若輩者に対して礼を失せず、おしつけがましくもなく、自然で、よけいな修飾もない。難解ないいまわしを使わず、本当に美しい。
そんな日本語が老いた人たちのなかに息づいていることを知ると、見えなかった何か小さなものが見えた気がした。