昨日21日に福島区民ホールでこの映画を見る事ができた。だが、シネ・ヌ-ヴォでもう一度、見たいと思っている。
「見るのがつらい部分もあると思いますが、見ておくべき」と綿井さんが冒頭の舞台挨拶で言ったこと。
イラクの戦場を映し出したものなのだから、当然だろうと思っていた。だけど、わたしだけだろうか?想像力の乏しかったのは・・・・・
この映画は、米軍の攻撃が始まる2日まえの映像から始まる。戦争前のバクダッド。戦争前ってこんな感じ何のかな?と思えるくらい、落ち着いた、しかし活気ある街、美しい街が映し出される。これは、イラン戦争・湾岸とある種戦争なれした国だからなのか?と思えるほどの人々が落ち着いているように見えた。
たぶん戦時の略奪を防ぐため商店の人は、いくつもの南京錠をつけるための鉄片を溶接しているシーン。
手馴れた様子。
だが、様相は一変にかわる。大量破壊兵器を探すために爆撃されているはずが、民家、病院に打ち込まれる爆弾。あっけなく奪われる、子供の命。叫ぶ、人々。
イラク戦争がはじまって、わたしたちは想像しただろうか?ブログを読み、リバーベンドの日記をよみ、イラク情勢をTVでなくインターネットから多く知った。大変なことになっていることを文章で読んでいた。なのに
想像力の乏しいわたしは、この映画であらためて、戦争とは、こういうことなんだ。と知らされる。
「戦争って、こういうことなんだ」簡単な言葉だけれど、すごく重い。
このドキュメンタリーは、音楽も後付けのナレーションもない。感傷的にもりあげることも、恐ろしい気分にさせる音楽も何もない。現実の録音のみだ。
リアリティというのは、どういうことだろう?人間とういうのは、本当に現実、今目に見えている事、置かれている状況から、戦争という異常事態をどのように理解するのだろう。これは、戦争に限らずどんなことにも言えるが、意識して想像するということをしない限り、自然に自分以外の立場を理解する事などありえないと思っている。
人間は鈍感で。どうしようもなく、利己的で。傲慢で。不自由になってみて初めて自由を知るというように、障害を持った人の苦労も不自由さも、老人になって衰えていく事も、知りたくないことを想像しないでいる。それと同じように、他国の戦争は、痛みを帯びない。
だけれど、このイラクについては事情が違う。他国の戦争ではなく、実際に、わが関西の伊丹からも自衛隊がイラクにこの間行った。日本は戦争に加わった。イラクの戦争はまだ、終わらない。ますます悪化している。
伊丹の駐屯地の前の171号線で、見たもの。「黄色いハンカチ」が数多くはためいていた。うちのテジョンはちょうど、出陣の日に、171を知らずに通って、ひどい渋滞に捕まった。大勢のこわそうなお兄さんとちょっとケバイお姉さんが手に手に黄色いハンカチをもって、「いってらっしゃい」と送り出している光景。
この映画で、綿井さんは、米兵に容赦のない質問や願いをぶつけている。それは、カメラのうしろから叫ばれていた。「もう、罪のない人を殺すのをやめてくれ」
わたしたちが見なければならない映画。イマジン。想像してご覧?という問いかけが、ぐるぐる頭を巡る。