ちかごろ
飛騨にて
「ちかごろ」と書いて、まずは日記をサボってました。飛騨に両親の付き添いの旅をしていて、帰ってから、日々がながれ。
自分のための旅というのと、また違う、サポートのたびでした。旅というのは好奇心と体力が要ります。年老いてくると、あとの方。体力が意欲にまけるときもあるんだということです。
とても大きな景色をみて、圧倒されたいというような旅、秘境にいって自然の神秘を堪能したい旅などは、非常に体力の準備が要る。もっと、今のうちにいかなくてはならないところがいっぱいあるな。と思うのだけど。
「ちかごろ」その2.本日は、子供の学童保育所のOB会であった。もちろん卒所・・・「出所」といったやつがおったな・・・堀の中に子供はおるんか?・・・いえいえ学童保育所は大阪市では民営(主に親によって運営されている)で、少ない助成金の中で高い保育料をとらざるをえず、悪戦苦闘しながら、小学校の下校後の生活を自由に楽しく、有意義にすごすことができる居場所として作っているものだ。
その運営の苦しさゆえ、OBにも協力を仰ぐ。しんどいゆえ結束する。
私は、仕事をしながらの子育てで、この学童での親同士の出会いは非常に親育てに重要な役割を果たしたと思う。
仕事と家の往復のようなことも多く、地域の親とのかかわりも薄く、大人も子育てに悩むときがよくあるけれど、こうやって学童の親があつまると、いろんなヒントを授かった。指導員の親でも学校でもない視点でみる子供の姿も貴重な情報となった。
なによりも、子供と過ごすことの思い出の多さは、学童にあった。
集団の中で、自分の遊びを創造するということも多々あった。独特のルールで遊ぶ、ここだけの遊び、どこにも売っていないおもちゃであそぶ、年上のこどもも下の子供も、背伸びしたり、年長のやさしさを発揮したり、ときには、いじわるしたりされたり・・・・・
そこには、懐かしい、人間関係がある。生身でやりとりするダイナミックさがある。
けっして、ネットやメールにはない、生々しい、おもしろみが詰まっていた。
子供には、その年齢できっとしなければならない通過点があるのだろう。それを飛ばして、老成しているようにみえても、実におさない心しかもっていないアンバランスをかかえて生きている子は多いのではないだろうか?
それは、おとなが、とっておきの「こどもの時間」をきっと奪い取ってしまったからだろうけど。
モモの時間泥棒は、実はこの世の全部の大人である。
不気味な野心をもっていて、自分に都合の良い、管理をしようとする。
自由になるんだよ。子供達。本当の自由は実にたいへんな時間なんだけど。全部を自分で決めていくなんて、大人だって大変だ。次にすることを、今やっていることをやめた時点で考えなくてはならない。いつも、次があるから、永遠に息あるうちは。