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2011年01月21日
いのち
今年が始まってから、このひと月もあわただしく時が過ぎていった。
特に年末から年明けは、年が変わるという雰囲気ではなかった。連綿とつづく翌日が始まったように。
いのちについて考えることが多い。
1月17日の震災の日前後の報道やドキュメンタリーは例年と少し違う要素もあった。
震災16年のその後の人々の暮らしなど。
復興住宅借り上げ期限が切れる20年を前にして転居をせまられる高齢者の報道、震災後のケガの後遺障害に苦しむ人々を追うドキュメンタリーなど、震災の傷跡、爪の深さを思い知らせれる。
生き延びたけれど、あの日からがらっと変わった人生。
それは、病気でもいえることなのだと思う。
何故か、NHKでは「がん」に関する情報を取り上げていることが多いと思う。
民法のニュースの1コーナーでも、女性のがんは注目されていると感じる。
私のまわりが「がん」だらけなので必要以上に目や耳がそっちに反応しているのかもしれないが。
「がん」の情報を見るといのちを考えてしまう。
自分のいのちは、何事もなく維持され続けている。そう、翌日が必ず来るというような錯覚を持ちながら、今ひと時も何もしないまま過ぎ去ってしまうというように。
自分の体のなかには生命を維持するために本当にいろいろ働いているのだね。と感心もするし、たぶん体内労働者の中には、悪いものを作り出すやつも同居している。
こんなことを思うのも、また「がん」患者が身辺にあらわれたからだ。
サバイバルの見通しのたたない「がん」の状態から、看取りまで。また。
当人にとっては、生も一回、死も一回。医者にとっては毎日の出来事なのだろうが、がん患者の家族には患者と同等の配慮と情報、誠意が欲しいものです。他の重篤な病気でもそうだろうけれど、がんはあまりにもポピュラーなので、医者にとっては。
カンペイさんが、大阪に帰ってきたね。前立腺がんのサバイバーとして。
がんで逝った、清志朗の姿を思い出す。生き残るものへバトンを渡した人として。
投稿者 pianocraft : 2011年01月21日 23:00
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コメント
関西に住む者にとって、震災の日は 否が応でも生と向き合わざるをえない日になってしまいます。この日、私も一人の若い知人を亡くしました。私の様な年齢になれば 誰でも経験する事なんでしょうけれど、家族・親戚・友達に至って もう数えきれない位の人を亡くして来ました。その為なのかも知れませんが、時々自分がどちら側にいるのか忘れてしまう時があります。生きている自分の頭の中には、今も全ての人が生き続けています。肉体のほろびが全てでは無いけれど、分かれを看取る事程辛い事はありません。周りの方々の健康が保たれる事を、切に願います。
投稿者 kaeco : 2011年01月25日 08:49
kaecoさん、こんばんは。
いのちは、生まれては滅びるもの。
生の延長に死があると、看取りのときに感じました。
突然失ってしまう死もありましたが、そんなときは
理不尽な思いだけ残り、いきなり目の前で戸が閉まったようで
落ち着くのに時間が必要でした。
いのちの終わり自体は、ともし火のように少しずつ消えていくのが幸せですね。
投稿者 pianocraft : 2011年01月26日 23:07