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2006年08月20日

平和という感性

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世界報道写真展2006

平和を論じるのに感性が必要かどうかといえば、誤解を生じるかもしれないが、必要ないかと思う。「論じる」のでなく、生活するうえで必要かといえばどうだろう?
私は、とても重要な感性ではないかと考えている。感性だけではどうにもならないかもしれない、でも感じる事がなければ、行動はできない。

かといって、日々の生活にいちいち平和でなくてはならないと意識するということではなく、いわば「センサー」として、何を働かせて生きていくか?ということに「感性」の問題が浮かび上がってくるように思う。

先日、世界報道写真展2006に行ってきた。これで、3年連続で行っている。写真展にはかならず、短い映像作品が上映されているが、今回は
ガーダ パレスチナの詩」古居みずえ監督をショートバージョンの15分で紹介されている。こちらも、自主上映を追いかけてなんとしても観たい映画だった。

この報道写真展のフライヤーの裏にはこんな言葉があった。
>昨年も事件、事故や自然災害は人類を苦しめ、人間が引き起こす紛争は多くの命を奪って止むところ>がありません。オランダで開かれた世界報道写真コンテストの応募作品は史上最多の8万3000点。カ>メラマンが現場に立ち合い、シャッターを押して発信したのです。厳選された約200点の写真を正面か>ら受け止めて見てください。きっとこれまで気づかなかった社会派の自分を発見するでしょう。

社会派になるってどういうことだろうか?日々のニュースに関心を持つこと?
あらためて切り取ってみせられた人的、あるいは自然の被害者たちに対して受け手は社会派なのか? それは、おかしい。それ以上に、写真の中に自分がいてもおかしくない世界という、地続きの感性を持っていたい。たまたま、強烈に冷房のきいたハービス大阪という立派な建物の中で、説明文を読みながら、見つめる自分は、いつも写真を見る側であって、反対側には立つことがない。だから、あっちがわとこっちがわがあるんだという認識ではなく「想像してごらん?」

その想像力がかけていると大変な間違いを人はするときがある。

これは、直接自分が見た、聞いた場面ではないので詳細を判断する事はさけるが、例えばこういうことだ。「平和のゴスペルコンサート」で「神さまの戦い」を表すために「迷彩服」を衣装にして唄うゴスペルクワイアがあるというような・・・・

自分はどこにいるのか?というのを見失うと、間違ったメッセージをおくることもある。
相手の場所や立場にとうてい立てないであろう、私。紛争地に生まれ、小さいときから敵がいて、命を奪われる危険があるところで育つ。銃をもたされて、知り合いを殺す事を命じられる。そういうところにいないから、知らない、判らないでおしまいにしないためには、知ること、想像する事。しかないじゃないの。

投稿者 pianocraft : 2006年08月20日 23:26

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